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2018.05.05 インドネシアでの仕事のアドバイス

ある製造会社のインドネシア進出の歴史

 この会社は1960年代当時、ピアノやギターに使用する南洋木材の確保を目的に、インドネシアのカリマンタン(ボルネオ島のインドネシア領)のジャングルの奥地に林区を買い、そこで伐採された丸太を日本に輸出することを始めました。社長自らがジャングルのキャンプに足を運び、ヘリコプターで上空から視察したと伝えられています。しかし、この森林事業はその後のインドネシア政府が発令した丸太の輸出規制などの理由で、1980年代初頭には幕を閉めました。
 1970年代には主にピアノと電子オルガンの需要を掘り起こすために、インドネシア全国で音楽教室を展開し始めました。また、楽器を輸入販売するための現地会社をローカルパートナーの名義で設立する傍ら、完成品にかかる高額な輸入税を低減するために、現地に製造会社を設立し、十数名規模での電子オルガンの組立工場の操業を始めました。この時代は1968年にスハルト政権が正式に誕生して、スカルノ政権の東側寄り政策から、西側に大きく舵を切り、外資導入政策を積極的に展開したことから、多くの大手日本企業がインドネシアに進出して来た時期です。その余りに急拡大した日本企業の進出が、1974年の当時首相であった田中角栄インドネシア訪問に際して日本排斥運動を起こしたほどでした。
 1980年代はインドネシア国内市場の拡大とインドネシア政府による現地化の圧力から、電子オルガンの現地化比率向上、ピアノの現地生産、ギターの現地生産など、製造会社は組立工場から加工工場へと変身し始めた時代でもありました。販売部門においても合弁企業での輸入卸活動が認可されるようになり、そのための新会社を設立しました。この時代には二回にわたる突然のルピア切り下げが行われ、主要な部品を日本から輸入した多くの日本企業は大変な目に遭いました。
 1990年代は急激な円高ドル安の影響を受けて、この会社も世界的な製造拠点の再編を迫られました。最終的には日本、中国、そしてインドネシアの三ヶ国に集約されることになり、インドネシアは普及帯のほぼ全製品の生産拠点を目指すことになりました。そのため各事業部が現地法人を設立し、商品別の本格的な工場がいくつか建設されて現在に至っています。1997年に起きたアジア金融危機に端を発したインドネシアのインフレ問題は、1998年5月には市民や学生による大暴動にまで発展し、スハルト大統領の30年におよぶ長期独裁政権の幕を下ろす結果となりました。
 2000年代は政治も安定し始め、初めての国民投票で選ばれ、2004年から2期10年続いたユドヨノ政権は民主化と経済成長に成功し、日本の昭和40年代に似た高度成長時代を実現しました。GDPの構成も日本に似て、国内消費が大きな牽引力を発揮しており、この会社のインドネシアでの業績も輸出だけでなく、国内販売の貢献度も次第に高くなっていると推測されます。
 このようにインドネシアにおける多くの日系企業は半世紀近い時間をかけて現在の地位を築いて来たのですが、家電部門は韓国企業に市場を奪われ、その韓国企業も次第に中国企業に脅かされ始めています。自動車・オートバイ部門は現在でも日本企業が市場をほぼ独占していますが、中国企業はそれを取り崩すための動きを既に始めています。これまでは資源産業に限られていた中国からの投資も、最近は日本企業の独断場であった二次、三次産業にシフトし始めています。親中派と言われる現政権が2019年の大統領選挙で再選されるとインドネシア市場は間違いなく日本と中国の争奪戦の様相となるでしょう。日本、中国、インドネシアに生産拠点を集約したことが果たして吉と出るか凶と出るか、注目したいと考えています。