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2018.10.28 コンサルタントの独り言

川上源一氏の思い出

 1975年に日本楽器製造株式会社(現在はヤマハ株式会社)に入社する一ヶ月前に、『社史』と『私の履歴書』と題する書籍が自宅に送られて来て、入社式までに読んで感想文を提出するようにと言われました。
 浜松の楽器製造会社を世界のヤマハに成長させた、当時の社長である川上源一氏の下で働けることにワクワクしながら、故郷の秋田を後にして浜松に向かった40年前のことを今でも忘れません。
 入社後も平社員である私が川上源一社長を直接拝顔出来るのは新年の挨拶の時ぐらいでしたが、インドネシアに駐在している間には現地での音楽コンサートに来られた際に、端役ながら工場の責任者として何回か直接会話をする機会がありました。
 一棟だけで電子オルガンの外装部分の木工加工と組立を行っている時は、速足で工場の中を通り抜けた後に『何だ、これだけか』と言われてショボンとなりました。
 倉庫の一画で人海戦術でギターを作り始めた時には『俺だったらこの4倍は作るぞ』と言われ、その方法はと聞きたかったのですが、自分で考えろと怒られそうな気がして止めました。
 ジャカルタ湾の沖に広がる【千の島】の北の端にある二島をJALがリゾート開発しており、そこまでの移動手段にヤマハのスピードボートを使っていたので、その島に視察に行くことになりました。
 ボートは高速で進むため、デッキに出ることは禁止されていたのですが、途中の海を自分の体で確認したいとのことで、デッキに椅子を括り付けて座ってもらうことになりましたが、私がその横で監視することになりました。
 島に着いて視察した後にロッジで休憩してもらったのですが、部屋の中からガチャガチャ音がするので、どうしたのかと覗いて見ると、トイレの水槽が上手く機能しないので自分で修理していました。ロッジのスタッフを呼ぶからと言ったのですが、自分で直すからと頑張っていました。
 オートバイの工場を視察した時には、1Kmもある工場内を足早に通り過ぎ、40ヶ所の改善を指示して帰りましたが、その慧眼には本当に敬服するばかりでした。
 昭和の時代には、本田宗一郎、松下幸之助といった名実ともに偉人と言える経営者がいたのだとつくづく思います。