2020.05.27
思い出深きインドネシアの人達との付き合い
怒ると怖い総務部長
この人とは私が赴任した時から帰国するまでの約15年間、毎日のように事務所で会話をしたものでした。
私よりも10歳くらい年長のバンドン出身のスンダ人で、専門は経理でしたが、工場では総務部長として実務分野ではインドネシア人のトップの役割を担っていました。
御多分に漏れず子沢山の家庭で、子供達を学校に通わせながら、小さいながらもマイホームを持つために生活を切り詰めていたのですが、建てた後はそのローンの返済でいつも頭を抱えていました。
給料は我々日本人の現地払い給与の半分くらいで、普通の社員の10倍くらいはもらっていたはずですが、毎月我々の給与額を目にして、本心ではどんな風に感じていたのか一度尋ねてみたいと思っていたのですが、その機会も無いまま帰国となり、その後数年して60歳前後で亡くなってしまいました。
若い頃から肥満気味で、インドネシア人の典型である糖尿病を患っていたせいで、昼ご飯には茹でた味の無い野菜だけを食べている時期もありました。
経理の帳簿や伝票をチェックしている時はいつも眉間に皺を寄せて、スタッフの間違いを指摘しては叱り付けていたものです。
しかし経理担当にしてありがちな枝葉末節に拘ることはなく、工場運営全体のバランスを考慮した、ある面で清濁併せ呑むような気概も兼ね備えており、私にとってはとても頼りがいのあるスタッフでした。
彼との一番の思い出は、私が赴任して一年後の暴行事件でした。
生産現場でふざけていた工員を、まだ若かった私が思わず殴ってしまったのです。
当然のことながら大問題になってしまったのですが、日本人の責任者と現地側の取締役の計らいでなんとか和解出来たのですが、最後まで私を許してくれなかったのは彼でした。
しかし私が反省の態度を示し謝罪した後は、自分達の仲間として本当に良くしてくれました。
彼自身も関連する役所を訪問して色々な請願や交渉を行う時には私をダシに連れて行き、外国人の幹部にインドネシア人として恥ずかしくない対応を要求したものでした。
インドネシア人社員からも怖い存在として一目置かれ、日本人に対しても毅然とした態度を貫いてくれた彼のお陰でどれだけ駐在生活が助けられたか、今でも感謝の念に堪えません。
赴任して2ヶ月目にやって来た初めての断食明け大祭レバランの時は、まだ家族も来ていなかったので借家で一人きりでしたが、気を遣ってジャカルタにある両親の家に招待してくれて、レバランのご馳走を頂きました。
その時初めて食べた、インドネシアの牛肉をスパイスで煮込んだルンダンに魅入られて、今でもインドネシア出張の際には機会があればルンダンを注文しています。