2020.05.29
思い出深きインドネシアの人達との付き合い
工員から副社長への出世頭
私が生産課長として現地に赴任した時、彼はある製品の組立作業を担当する工員でした。
小柄で物静かな中部ジャワの出身で、工業高校を卒業して入社して5年目の一期生でした。
前任者からは、真面目で頭が良く素直であるが、インドネシアでは御法度の共産主義に少し被れているので注意するようにと言われました。
しかし、その後の様子からもそんなことは感じられず、数年後に手掛けた新商品の責任者候補として、一年間の日本研修に行かせました。
出発する前には私が自ら日本語の特訓を施したこともあったのですが、一年間の日本滞在で流暢な日本語を話せるようになり、なによりも仕事をしっかり習得して来たのには感心しました。
そして新製品の生産立上も順調に進んでいたある日、健康診断の結果から結核と通告され、暫く安静にしないと命が危ないと言われ、私は落胆の涙を流したのですが、彼自身は周りの心配をよそに休むことなく会社に来ているうちに、なんと完治してしまいました。
後輩達からも慕われて頼りにされていた彼は、私の帰国後も高く評価され、今は副社長として工場の要になっているそうです。
既に60歳を超えているはずですが、今でも飄々とした姿で工場の中を闊歩している様子が目に浮かびます。