2021.03.31
インドネシアでの生活
若き日々を過ごしたインドネシアの忘れ得ぬ思い出
私が初めてインドネシアの地を踏んだのは1980年で、26歳の時でした。
結婚して間もない頃で、その一年後には長女が生れ、それから次女、長男を授かり、長女が中学校を卒業する直前までの15年間を、家族と共にインドネシアで暮らすことになりました。
20代後半から30代にかけての、体力と気力が人生で最高の時期に、インドネシア工場の責任者として、従業員を50人前後から2000人近くまで増やしながら、国内市場向け製品の組立工場から輸出向けの製造拠点へと、量・質共に急拡大する仕事に直接関わることが出来たのはとても幸運だったと感謝しています。
赴任当時はジャカルタ市内の幹線道路もまだ高速道路が無く、側道はマホガニーの街路樹がトンネルの様に枝を広げていたのが鮮やかに脳裏に残っています。
今では高架になった高速道路のトンネルになっていますが、さすがにメンテン地区はまだ当時のままで、緑に包まれた南国の楽園の雰囲気を残しています。
今ではほとんど外国人が高層アパートに住んでいますが、当時はそれらも無く、皆一軒家を借りて住んでいました。
雨季は雨漏りが多く、乾季は水道が出ないことがしばしばで、毎日の様に悪戦苦闘を繰り返していましたが、家の前を行き来する物売りの呼び声が懐かしく思い出されます。
焼鳥のSate、焼売のSiomai、肉団子スープのBasok、プロパンガス、靴修理等々独特の呼び声で直ぐに分るので、我が家のお女中は良く皿を持って走り出して行ったものでした。
そして極め付きは一日5回のイスラムのお祈りの放送です。
だいたい1Km四方に一ヶ所くらいはあると思われるモスクの一番高い所にはTOWAの拡声器が取り付けられていて、早朝、昼、夕方、夜に5回、お祈りが聞こえて来ました。
高層アパートやホテルではあまり気が付かないかもしれませんが、一軒家だとだいたい数ヶ所から聞こえて来ました。
慣れて来ると心地良いもので、今でもインターネットで聴くのが楽しみになっています。
溢れる様な樹木の緑、物売りの声、そしてコーランの調・・・・私のインドネシアです。