2024.09.29
コンサルタントの独り言
明日はG30S
1965年9月30日未明、インドネシア共産党軍が6名の国軍将官と1名の護衛官を拉致し、殺害した後にジャカルタ東部にある鰐の穴と呼ばれる所に投げ込む事件が起きました。
G30SはGerakan 30 Septemberの略で、9月30日の事件ですから、日本語的には9.30事変と言われるのでしょう。
一般に言われる事件の背景は、共産党を認めていたスカルノ大統領の病気が悪化し、存命の内に反共産党の国軍幹部を始末しなくてはいけないと焦った共産党が、クーデターを企てたと言われています。
しかし、何故かその埒の対象外であった陸軍のスハルト少将が、数日でクーデターを鎮圧し、その後は冤罪者も含めて犠牲者50万人とも言われる、共産主義者の粛清が始まりました。
クーデターの後、スカルノ大統領は失脚し、3年後の1968年にスハルト大統領が正式に就任し、それから30年後のジャカルタ大暴動の責任を取り辞任するまで、長期軍事独裁政権を維持することになりました。
しかし、1965年と言う年を振り返って見ると、この時期はアジアで共産勢力が荒れ狂っていたことを理解すべきです。
中国では文化大革命が始まり、ベトナムとカンボジアでは共産主義勢力が国を分断し始めていました。
共産主義ではありませんが、シンガポールがリークアンユー首相の政治力でマレーシアから分離独立した年でもありました。
要するにソ連と中国がアジア各地で共産主義を急速に広めていたのですが、東西冷戦の一方のリーダーであるアメリカが、これらを黙って見過ごすはずがありませんでした。
その最大の衝突がベトナム戦争として1975年まで続きます。
もしインドネシアでの共産化がG30Sで成功していたら、ベトナム同様にソ連とアメリカの代理戦争の舞台になっていたのかもしれません。
それ故にG30SはアメリカのCIAがスハルト少将と結託して、先手を打ったクーデターとも言われる所以です。
後にアメリカの公文書が解禁となり、G30Sの真相が明らかになる日も来るでしょうが、ベトナム戦争の悲惨さを思い出すと、結果として良かったのかと思うこともあります。